銀河に浮かぶ

<いま、生きる> という事を考え、日常を過ごす

1人でやるべきこと

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仏教の言葉で、

「発菩提心」ほつぼだいしん

というものがあります。

菩提心とは、悟りたい、真理に到達したい、と願う心のことです。

 

つまり、この世とは何かとか、自分は何か、人は何か、生き物は何か、

モノとは何か、などなどあらゆる事を理解し、

自分の魂の成長を求めること。

 

仏教ではこの菩提心がまず「芽生える」=発菩提心

ということがとっても大事で、

この心の芽生えを意識したらもう大丈夫、(私訳で非常〜にざっくり言いました笑)

菩提心があると自動的に成長するステップが進んでいく、

とされています。

 

 

これは、

仏教という枠内のことだけでは決してないと思います。

どんな宗教、そしていわゆる無宗教でもどんな人でも同じ。

「わたしという存在として、もっと本当の意味で内面から成長していきたい」

と思うということだと思います。

また、この「本当の」

というのは、時代・国・性別・職業などなどに全く左右されない、

普遍的なということですね。

 

 

さて。

菩提心に連なる魂の成長の為の過程とは、

全く個人的なプロセスでやってくるものなんですよね。

 

どんな人も、最終的に履修して学ばなければならない科目は

おそらく決まっているのだと思います。

けれど、どの順番で学ぶのか、どういう形で学ぶのか、

ということは、それぞれの人によって必ず違います。

そして、あくまで個人体験を通して学んでいくことで、

既存の理想的な形などの通りには行くことではないし、

またそうした形を求めるべきでもありません。

 

 

また、これが全く個人的な作業であるが故に、

誰かと一歩一歩足並みを揃えてやっていくことは

難しい。というか、それは無理なことです。

 

もちろん、体験や感じたこと、考えを共有してすりあわせたり整理したりして、

互いに学びを感じていくということはあります。

こうした相手がいるというのは、非常に貴重で幸せなことです。

でもその関係も、互いに依存してもよろしくないことですね。

また、誰かから

こうしろああしろ、こうすべきだ、次はこれだ、などと

指示されるものではないので、

指示ではなく、あくまでアドバイス的な1意見として提供してくれる存在はいいなぁと思います。

当人が自分でそうした意見たちを自分の力で考えて

前に進んでいくべきことです。

 

孤独な作業の繰り返しです。

でも、作業を繰り返していくとどんどんまた孤独でもなくなっていくのだなぁ、

と最近改めて感じております。

 

      文: 満ちる

 

 

手放して、内面的な断捨離を

 

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コロナでの自粛期間中の4〜5、6月にかけて、

私は取り憑かれたように(笑)家中の片付けと掃除をしておりました。

 

今までも何年かかけて何度もいわゆる断捨離というものにトライしてきて、

ちょこちょこモノを捨て服を捨て整理して掃除して。。というのを

繰り返してきてはいました。

断捨離って終わりがないなぁ、と思っておりました。

 

そして今回のまた一気に行う断捨離では、

今までよりもちょっと、ある意味研ぎ澄まされたというか、

今の私にはもうこれは必要ないかもしれない、という感覚が以前よりは鮮明になり、

ずっと悩みつつ取ってあったものや服を今まで以上に一気に捨てたり

処分する事が出来ました。

 

コロナのせいというかおかげなのでしょうか。

日常が大事だという感覚の線引きがかなり以前よりははっきりしたのかな、という

感覚で。

あとは今まで無頓着だった物の多さや、

使っていないものが前よりも少しははっきり見えた感覚がありました。

 

そして、そういったものたちにありがとう、と声をかけつつ、

一気に捨てていくことの快感(笑)

そして残ったものたちを有効的に使える様に整理し直す爽快感(笑)

 

これ、断捨離の醍醐味なんでしょうね。

 

そして、私にとって重要なのは断捨離後でした。

 

断捨離アンド掃除をしたので、まず家にいてもどこを見てもとっても気分が良い。

どこに何が入っているか、あれはまだちょっと迷って捨てられなかったな、

というものまで含めて、全て把握しているというスッキリ感。

 

それから、

もう今後これらのものは当分は買わなくてもいいなというもの、

この辺のものは新たに欲しいな、というもの、

が、これまた鮮明に自分でわかってきました。

 

そして、例えば服を例にすると、

こういうジャンルの服はいらないけれど、家で着るTシャツは可愛いのが何枚か欲しいな、とか、

出掛ける用の服もこういうものはあるから、基本はいらないけれど

買うとしたらアレンジが効く、シンプルなこういうものなら買ってもいいな、

でも作った方がいいかな(わたくしソーイングデザイナーでございました)、とか、

全て具体的に考えられるということ。

 

そして、

そういう感覚の上で新たに買うものは、

値段というより(ある程度は、ってことですが)とにかく素材やらサイズ、デザインやらが

気に入ったもの。

買ったらいつか使う、じゃなく、もう買ったそばから使って楽しい気持ちになれるもの。

 

そうやって歓迎する気持ちで物を手にすると、

モノの気と言いますか、エネルギーというものがやはりあるのではないかな、

などと感じたりしております。

 

断捨離は、不要なものを捨て去ることで、

全体的に整理し整えられ、空間として整理されるということ。

いろいろな流れがよくなるということ。

そして空いた空間には、

きちんと必要なものが新たに入ってきて自分のエネルギーにもなるという、

良い循環を引き起こす行動なんだなぁ、などと思ったりした訳です。

 

 

そして。

 

 

これは、人の内面にも言えるのだなと思ったのです。

 

私にも色んな色んなコンプレックスや気持ちのわだかまりがあります。

でも、

一つ一つ頑張って(ちょっと頑張らないとこれがまた出来ないんですけどね。。)

それらを手放すと、

より良き、そして、私に今必要なエネルギーがやって来るんだと

思うんですよね。

手放す、というのは痛みを伴うことでもあるんですが。。

 

こうやって、魂の成長を更に進めていくのかな、と

改めて思うこの頃です。

 

     文: 満ちる

 

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死を想う

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メメントモリ。死を想え。

 

これは、生きている人間は皆心すべきことだと

私も体感しております。

 

けれど、ひと口に死を想え、死について考えろ、といっても、

死についての感情や体験から来る感覚は人によって千差万別です。

 

「死」についての話をしようとすると、

そんな縁起の悪いこと言わないで! とはなっから全然話を聞かない姿勢の方も多くいらっしゃいます。

私は十代の頃に太宰治芥川龍之介に危ないくらいにドはまりし

自殺することが格好良いくらいに思っていた時期もあったり(いわゆる中二病ですかね笑)、

あとはやはり病気をしたことで何度も真剣に死ぬということを考えたことが

大きくその後の自分自身の形成に影響いたしました。

 

人は必ず死ぬし、それを逃れられることは出来ません。

それはわかっていても、自分のこととして考えたり想像することは

正直難しいんですよね。

でも、絶対的にこれは考えるべきことなんですよね。。

 

考えた結果思うことは、

日常のなんでもないことでもどれだけ幸せなことか、

生きているということがどれだけ奇跡的に恵まれていることなのか、

そして自分はどう日々を過ごしていきたいかということが

余計なことが削ぎ落とされてシンプルになっていく

ということなんだと思います。

そして、とにかく「感謝」

という気持ちが湧きますね。

 

私もそれを強く体感しました。

けれど元気に忙しく日々を過ごしていると、なぜかすぐその気持ちを忘れてしまう。。!

だからやっぱり、日々死を想わないといけないのだな、と

自戒しております。

 

       文: 満ちる

 

 

 

 

 

 

無宗教とは

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日本人はよく、「私は無宗教ですから」と口にします。

 

そう言う時の「宗教」と言う言葉の意味は、「特定の宗教の団体に属していません」だったり、「特定の宗教を信じている訳ではありません」というのが大半だと思います。

 

けれど、「宗教観」というものはおそらく大多数の日本人は持っているのではないでしょうか。

宗教感覚、と訳せばわかりやすいでしょうか。

 

何か苦しいことや願い事がある時や

年末年始や、子どもが生まれた、などなど、神社仏閣に足を運ぶ方も多いと思います。

そうした時に、行けば手を合わせるし、最近は手も清めて神社では二礼二拍手一礼をするという作法もほとんどの方が実行したりしています。

(私が子供の頃は、ほとんどの人がそうした作法は知らなかった様に思います。)

 

そうした場所で礼を欠いた行動をしたら何となく良くない、バチが当たりそう...という感覚は皆さん持っていると思います。

 

そもそも、無宗教でありながら、ではなぜ神社や仏閣では拝んで何か熱心に祈ったり願ったりするのでしょうか。

 

特定の宗教を信じている訳ではないが、神や仏(的なもの)は信じている。

明らかに「信じる」という感覚ではなくても、なにか畏敬の念や恐れの気持ちを持っているのではないでしょうか。

それが、多くの日本人の持っている「宗教観」なんですよね。

 

 

私は、それで充分だと思っています。

私も空海さんが好きで尊敬しておりますが、ではその宗派に属して何か活動しよう、というのはまた別の事だと感じています。

そうした行動や特定の宗教をもちろん否定してるものでも全然ないんですけどね。

 

好きなお寺にはしょっちゅう行って(東京の深川のお不動さんです。)護摩行には参加させていただいてますし(誰でも参加できます。おすすめです。)

そして他に、お気に入りの神社や教会にもよく行きます。

まさに日本人的な、八百万の神の感覚がわたしにもしっくりくるなと思っておりますし、

そうした「感覚」は大事だと思います。

 

 「宗教」という言葉に過剰に敏感になったのは恐らく第二次世界大戦の後からだと思いますし、また様々なカルト集団などの記憶からだと思いますが、

反応が過剰過ぎるようにも思います。

(普段そういうことは否定してるのに、何かあった時にいきなりカルト的なことにどハマりするなど、極端な例もありますよね。。)

 

 

宗教ではなく「宗教観を持っている」ということを世の中の皆さんがもっと自覚してくれたらいいなあ、などと思っております。

 

 

 

 

          文:満ちる

環境の奴隷にならない

生きていると、悩みはつきません。

人の目ばかり気にして生きるより、自分自身としっかり向き合い、自分自身の人生を生きていきたいものです。

今年は、そのチャンスが世界中に起きているような気がします。

コロナウィルスであらゆる常識がグルリと変わりましたが、自分の中も、グルリと変化するチャンスかもしれません。

自分自身の思考も思いきってこの際、この変化の波に乗ってしまうのもいいかも(笑)

渡辺 和子 ノートルダム清心学園理事長

のお話より


初めての土地、

思いがけない役職、

未経験者の事柄の連続、

それは私が当初考えていた修道生活とは、

あまりにもかけはなれていて、

私はいつの間なか、

” くれない族 ” になっていました。

「あいさつしてくれない」

こんな苦労しているのに

「ねぎらってくれない」

「わかってくれない」

自信を喪失し、

修道院を出ようかとまで思いつめた

私に、

一人のい宣教師が一つの短い英語の

詩を、

渡してくれました。

その詩の冒頭の一行、

それが「置かれたところで咲きなさい」

という言葉だったのです。

岡山という土地に置かれ、

学長という風当りの強い立場に置かれ

四苦八苦している私を見るに見かねて、

くださったのでしょう。

私はかわりました。

そうだ、

置かれた場に不平不満を持ち、

他人の出方で幸せになったり

不幸になったりしては、

私は環境の奴隷でしかない。

人間と生まれたからには、

どんなところに置かれても、

そこで環境の主人となり自分の花を

咲かせよう、

と決心することができました。

それは「私が変わる」ことによって

のみ可能でした。

いただいた詩は、

「置かれたところで咲きなさい」の

後に続けて、

こう書かれていました。

「咲くということは、

仕方ないと諦めることではありません。

それは自分が笑顔で幸せに生き、

周囲の人々も幸せにすることによって、

神が、あなたを

ここにお植えになったのは間違いで

なかったと証明することなのです」

私は、かつて

” くれない族 ” の自分と

訣別(けつべつ)しました。

私から先に学生にあいさつし、

ほほえみかけ、

お礼をいう人になったのです。

そうしたら不思議なことに、

教職員も学生も皆、

明るくなり優しくなってくれました。

「置かれたところで咲く」

この生き方は、

私だけでなく学生、卒業生たちにも

波及しました。

結婚しても、就職しても、子育てを

しても、

「こんなはずじゃなかった」と思う

ことが次から次に出てきます。

そんな時にも、その状況の中で

「咲く」努力をしてほしいのです。

どうしても咲かない時もあります。

雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、

そんな時には無理に咲かなくてもいい。

その代わりに、根を下へ下へと降ろして、

根を張るのです。

次に咲く花がより大きく、

美しいものとなるために・・・

『置かれたところで咲く』

結局、自分自身が変わらなければ何も始まらないのですね。

自分自身を輝そう❇

あなたが輝けば、自然と周りの人たちにその輝きが放出します。

きっと、きっと何か素晴らしいことが起きると思います🙆


         スピカ❇

これからの時代

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明日は都知事選挙です。

全国から注目されているこの選挙。

このタイミングですし、特にコロナ対策も国政の流れも絡んだ選挙となりますね。

私満ちるも一応都民でして、明日は投票に参ります。

 

先週、「21世紀の資本」という映画を見ました。

久しぶりの映画館、ミニシアターで一個置きに椅子に座って鑑賞。

不謹慎かもしれませんが、お隣が一個開けてさらに不在だったりで、

割りと快適に見られました。。

 

映画はフランスの経済学者トマ・ピケさんの著書をそのままドキュメンタリー映画にしたものだったのですが、

18世紀以降の資本主義の流れと現代の問題点がざっとわかりやすく映像とデータを絡めて説明されており、非常に参考になりました。

 

その内容を私なりにざっっくりまとめますと、

現代の資本主義は、人口の上位わずか1〜数%の富裕層は、その持っている資本を元に更に富を集め、

中産階級は減少、貧困層は増加、

そして貧富の差はどんどん広まっていくばかりのシステムだ、

ということです。

 

下からその富裕層に入るのは非常に難しく、

また、富裕層は富ならず権力も持っていてそれらを世襲していくので、その富は分配されない。

またその資本を元に得る収益の方が、

一般的に労働で得る対価よりも遥かに収益率は高いので、そこでも富は持てるものが持ち続け、更に増やしていくという構造となっている。

 

これらを改善するには、

累進的に財産と所得に課税し、

また富裕層がタックスヘイヴンに資産を移さない様国家間の条約や取り決めが必要。。

ですが、それらは非常になし難い事です。

 

 

今の日本の政府のあり方を見ていても、まさにこうしたことが顕著に露呈しているのでは。。

と思いましたね。

18世期のフランスでは、わずか上位1%の富裕層が、国内の6割の資産を保有していたそうです。

日本はそこまで行かなくとも、そうした方向へ流れているのは間違いないんだろうなと感じます。

 

今の時代、もう夢想家だなという位の理想を持った政治家が必要なのではないか、

と感じますが、皆様どうお考えでしょうか。。

 

とりあえず明日の選挙に行かねば。

 

      文: 満ちる

物理学とこの世の理解

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最近、この世の仕組みを知るにはともかく物理学を学ぶのが一番だなぁと実感しております。

 

でも皆さんも、難しいよ!と思う方が大半であろうこともわかります。

 

私も元々バリバリの文系的な脳でして。

でも、理系的考え方のメリットもとても感じているので、

取り入れようとずっと努力はしているのです。

それでも公式などはするする頭を通過していく(笑)

今は文系でもわかる!みたいな解説本であったり、

動画でも極力わかりやすく説明してくれている方がいらっしゃって、

ありがたい限りです。。

 

まあそれでさえも複数回見て繰り返し頭に入れるって感じですがね。。

 

youtu.be

 

この動画を拝見して、まず心に響いたのが、

 

私たちが当たり前だと思っている感覚が、事実に裏切られる

ということを理解し感じて受け入れよう(意訳です!)

 

という事でした。

まさに、物理学、量子力学を見ていると、

それが事実なのに、私たちの日常の感覚からはかけ離れているので

感覚的に受け入れるのに苦労します。

でもそっちが揺るぎない事実。。。

この感覚の飛躍を、

変な思い込みとか信心とかで乗り越えよう、では決してなく、

とにかく理性的に判断して受け入れることが必要だと思います。

 

だからこの言葉を聞いて、

まずはテンションが上がりました(笑)

まさに、聞きたかった言葉だなぁと。

 

物理学を知ってくると、この世界への認識が本当に変わってきます。

もっともっと、物理学の重要性を子供から教えて

がんがん教えるべきなのでは。。と思う今日この頃。

そして私も、更にお勉強〜。楽しくってしょうがないです。

 

 

 

     文: 満ちる